とうがらしの歴史

History

昭和40年のとうがらし畑

コロンブスが見つけた“赤いコショウ”

1492年8月、コロンブスはジパングの「黄金」とインドの「コショウ」を手に入れる目的で、スペインの港を出航して西へ西へと航行し、ついに西インド諸島を発見した。

彼はここをインドと信じ、原住民をインディアンと呼び、また現地で目にした小粒の赤い色の辛い果実が原住民たちの利用の方法から、これがコショウであると思い込み自国へ持ち帰った。

当初は香りが乏しく、あまりにも辛味が強すぎたために、ただ鮮やかな赤色の果実が観賞用として栽培されたのに過ぎなかった。

しかしながら、スペインやポルトガルでは、当時のヨーロッパの人々が好んだ風味と辛味のあるコショウは栽培できなかったけれども、辛いとうがらしは容易に栽培することが可能であったため次第にスパイスとして利用されるようになっていった。

こうして「とうがらし」は、わずか100年余りの間に世界中に伝播され、現在では世界の人々にとって欠かすことのできないほど利用されるようになって、人類の食生活に大きな影響を及ぼすに至ったのである。

日本への伝来と歩み

16世紀の中・後期にポルトガルによって長崎に伝来したと推測されている。中国へ渡ったのは日本よりもずっと遅く、明の末期1640年頃というのが有力説らしい。

収穫期のとうがらし畑
とうがらしとカエル

日本で「とうがらしの栽培が本格化したのは昭和初期といわれている。というのも、うどんやそばの薬味にしか使われなかった「とうがらし」が家庭の食卓にカレーやウイスターソースなどがのぼるようになり、それらの原料として使われるようになったからである。

北関東地方で栽培が始まったのは、昭和5,6年ごろ。「とうがらし」の生産は東京のカレーメーカーとの契約栽培がきっかけのようである。その後、「とうがらし」の栽培は第2次大戦中に中断されたが、戦後は外貨獲得のために通産省などの奨励で主要な輸出品目となった。

当時は、天に向かって勢い良くその実をつくる姿から「天井守」と親しみを込めて呼ばれていた。(栃木では守がなまって「天井まぶり」と呼ばれていた。)しかし、この名称は、現在、北関東ではわずかに栃木、茨城の山里などにその名残りをとどめるだけである。

時は流れ、どんどん円高が進んだことで、輸出が難しくなったことや手作業が中心で手間のかかる「とうがらし」栽培が敬遠されたことから、現在では消費量のほとんどを輸入している状況となっている。

とうがらしの原産地

とうがらしの原産地は中南米と考えられており、紀元前8000~7000年にはペルーの中部山岳地帯で、紀元前7000年頃にはメキシコで栽培され、アヒイ(Aji)と呼ばれていたことが考古学的に明らかにされている。

すなわち「とうがらし」はアメリカ大陸において最も古くから栽培利用されてきた作物の一つと見なされているものであった。

しかし、実際にスパイスとして広く多用されるようになった歴史は浅く、わずか400年ほどのことである。

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とうがらし生産量日本一、とうがらしの郷 大田原

0287-22-2273